戦国武将細川幽斎が百歌連歌の会を開いた逸話や石見銀山初代奉行、大久保長安の殺生禁断の
制礼や逆修墓があることで知られる古刹。
恵珖寺(日蓮宗)は温泉街の中にあり、石見銀山初代奉行、大久保石見守長保の殺生禁断の制令や逆修墓があることで知られる歴史の多い寺です。
加賀国の僧、日慈が石見銀山の妙像寺で説法をしたとき、法話に感動した恵珖寺の信徒たちが温泉津に迎え、今までの小さなお寺(真言宗)を改宗し、大永5年(1525)に現在の寺院の基礎となるお堂を創建したと言われています。天正15年(1587)5月、細川幽斎が温泉津を訪ね連歌の会を開いています。このとき日慈は82歳になっていました。
連歌の会は、5月3日に催されており、幽斎を含め8人で連作しています。恵珖寺の連歌は百韻もあるので、終日作句に興じていたと思われます。当日の連歌の記録は今も貴重な資料として保存されています。
恵珖寺の本堂裏手には、数多くの墓標が一つ屋根の下に並ぶ廟式の墓地があります。刻まれた越前屋、佐渡屋、境屋、泉屋などの屋号から、これらの墓地が廻船問屋のものであり、北前船を介して全国各地と交流していたことがうかがえます。