大森の町並みの南、銀山地区の東にそびえる標高537mの山。
大永6年(1526)に、博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)が日本海を航行中、光り輝く銀峯山(ぎんぷせん=仙ノ山)を見て銀山を発見したと伝えられています。文献「大内義隆記」では、寿禎の開発から2年後には、石見銀山が宝の山となり海外にも鳴り響き「唐土(もろこし)天竺(てんじく)高麗(こうらい)の船が来た」と外国船の到来を記しています。
銀を産出するこの山の谷には、人が住んだ跡である平坦な段が連なっています。なんと頂上近くの石銀地区(いしがねちく)と呼ばれるあたりまで平坦面があり、数多くの人が働いていた当時の様子を彷彿とさせます。 これまで3カ所の発掘現場から鉱石を砕く選鉱施設の土坑(どこう)、比重選鉱施設、それに炉跡と思われる施設など17世紀初頭の吹屋跡、中世の地層から炉跡や水路も見つかっています。
さらに、陶磁器類なども数多く出土しており、中世から近世にかけてここが銀精錬の生産工場と生産従事者の生活の場が一体的にあったことをうかがわせます。 どうやらこの山頂では、銀鉱石の掘り出しだけではなく、精錬に至るかなりの工程をこなしていたと考えられます。その人数や実態などは明らかではありませんが、石見銀山のにぎわう光景を「仙ノ山に通じる7つの谷には民家1万3千戸を数え、中国からの渡来人も移り住み唐人屋敷や唐人橋の名を残すに至った」 と「石見銀山旧記」には書き残されています。
また、最盛期を迎える江戸初期の活況を「人数20万人、1日の米消費1,500石余り、馬車の往来昼夜分かたず…」とも表現しています。銀を目指して全国から多くの人が集ったのは間違いない史実でしょう。